自己紹介(後編 現在まで)
そんな行き場のないモヤモヤした気持ちのなか、エデンハウス2号店あるといいね、誰かやらないかという話が聞こえてきた。
全体図はつかめないけど、それってすごくいいんじゃないかと思い、それやりたいですと言った。
言ったものの、葛藤しかなかった。
えらてん氏に相談し、これくらい用意すればいいよ、それの半分くらい用意すればもう半分くらい出してくれる人が出てくるもんですよ。と言ってもらった。
心強い一言だったがそのときは金がなく、生活が安定しておらず途方もない道のりのように思えた。
そこから仕事をし、エデンハウスの生活にも慣れ、心身のバランスがとれ、安定してきた。そしていいタイミングで前職のショボい退職金が入ってきた。
これならいける気がする!
エデンハウスやこの界隈で暮らしているといろいろな出会い、考えが生まれ、交流があり毎日が刺激的だ。
いろいろな集まりに呼んでいただいたり、自分からエデンに行ったりしてるうちに顔見知りや仲のいい人ができ、気になっている人、
ぜひ会ってみたかった人にもお会いしてお話しすることができている。
生活するのが楽しくなってきた。
そんな生活をしていて、エデンハウス2号店やりたい、やっていっている話を少しづつしていたら数名の出資者神が現れて下さった。
びっくりしたのと、出資してもらえるありがたさ、うれしさ、感謝と色々な気持ちが混ざりあって非常にエモい気持ちになって、やっていくエンジンが全開になる思いだった。
まだ、計画進行中だけどエデンハウス2号店ができたらどんなことになるのだろうか。
自分自身が一番楽しみにしているのだと思う。
自己紹介中編(この界隈へ来るあたり)
えらてん氏とホリケンさんとのトークショー。仕事終わりに高速飛ばして向かうものの、渋滞のため遅刻して半分くらいのとこから入場した。
金曜の夜の開催だったかと思う。
せっかく行ったものの、一週間の仕事疲れ、運転疲れ、おなかがすいた、風呂入りたい、眠いとかてなかなか集中できなかったものの、おふたりの話は面白かった。
弁の立つお二人の知見やおもしろトークに感心したり、笑ったり、ウンウンうなずきながら時間が過ぎていった。
終了し、すぐ帰る人も多かったが、合間を縫って少しお話しすることができた。
遠慮やら疲れやら緊張やらが相まってうまくおしゃべりすることができなかったように思う。ツイッターの話をふったらフォローしますよと気さくに言って頂いた。
それからえらてん氏のラジヲも聞き始め、おもしろい回は録音して何回も聞いたりした。借金玉氏との回などはよく聞いた。
たぶん今年の1月分までは全部聞いたと思う。(2018年)
ハマっていた、救いを求めていた。
どういう状況から救われたかったかというと、コミュニケーションに飢えまくっている現状からの救い、なんだなと今では言葉にできる。
だって、えらてんラジヲを聴いてるといろいろ人がまわりにいて楽しそう、混ざりたい!って感じなのだ。
こっちはおじさんの先輩たちとのだいたい予想のつきそうな話をするしかないし、現場に入っていたらシカとかタヌキとかと世間話するしかないのだ。
新しい革新的なサービスやなんかの話をふっても大したリアクションがない環境にいるよりも、もっと刺激をうけたり、いろいろできる環境に来たかったのだ。
前の仕事での勤め人としてやっていくには限界に達していたので、退職後は少しだけ同僚と独立して仕事をしていた。
だが、求めるものは地元での独立ではなく、都会での生活だった。
エデンハウスに来てからはできるだけ早く生活の安定をはかった。
仕事も決まり、運よく前の仕事に通じるような仕事を見つけ、対応しやすかったし、順応することができたと思う。
エデンハウス住民みんな、界隈の人たちにたいへんよくしていただいたおかげで生活を軌道に乗せられた。
今までずっと人に恵まれてきたけど、今回も人に恵まれている。今現在も。
仕事は決まった。そんなに苦なくできる。居心地もまあいい。いいからけっこう年になってもやっている人もいる。
でも、それをずっと続けるかと言ったら違う。
またそれだと同じことの繰り返しになる。
自己紹介前編(だいたいの経歴とえらてん氏との出会いまで)
エデンハウスというシェアハウスに住んでいるつとと申します。
男性、32歳です。
千葉県で生まれ、小学生の時に長野県に引っ越して、だいたいそこで育ちました。
中学二年くらいの頃にささいなきっかけから人の目が気になりはじめ、不登校になり卒業後は就職か進学かの二択しかなく(田舎なので選択肢がない)、どうしても高校に行くのが嫌だったので フルタイムのアルバイトをしていました。
親の教えとして、15歳になったら家を出ていいんだよ~と言われて育ったので、出なきゃいけないのかな~と曖昧な考えが育っていき、お金がいくらか貯まっていた事、漫画やゲームが好きだったこともあり、東京、代々木にあるゲームクリエイターになるための専門学校に17歳の頃に進みます。
イラスト科だったので、入学したら絵を教えてもらえるんだろうな~という軽い気持ちで入学したら、クラスで一番絵がうまいとか、描くのが好きな人ばかり入って来ていて、劣等感やいろいろ考えすぎてしまいそこでも不登校気味になります。
レールを外れたら外れるやつが他にもいるもんで、当時は学校の寮に入居していたのですが隣の部屋のやつと意気投合して、いろいろなおもしろい遊びを教えてもらいました。
ラジオの深夜放送(みうらじゅんさんやリリー·フランキー氏の)を聴いたり、格闘ゲームで延々と対戦したり(梅原大吾のことをウメ様と呼んでいた)他にもいろんな遊びをしました。
特にみうらさんやリリーさんのラジオは衝撃を受けて、こんなおもしろい大人がいるんだ!こんなしょうもないことばっか言ってるのに何でこんなにカッコいいんだ!といろいろと影響を受けすぎました。
ちなみにその友達はタバコが好きすぎて、
キューバの高級な葉巻工場で働けば葉巻が吸い放題らしいからオレ絶対そこで働く!って言っていたナイスなやつでした。
専門学校は3Dモデリングがわりと好きだったのですが、「就活」という事になるとなかなか気が重く、就活に積極的になれずに学校の方も卒業式を迎え、その後は生活のために給料のよかったパチンコ屋さんで働く事になります。
長いので割愛しますがそこでも人に恵まれて心のマイメンとも呼べる友達もできたりしました。
そのパチンコ屋さんでは2年半くらい働きます
その後いろいろあり、これからどうやって生きていったらいいのかが本当にわからなくなり、地元に帰ることになります。
ニートとバイトを行き来しながら運転免許をとったりヘルパー免許やなんかをとったりするのですが、曖昧な日々を送るうちに社会に出てやっていく事がすっかり怖くなり、曖昧な、先送りばかりの日々を送るわけですが、たいへん親にもいろいろな負担をかけながら生活をし、そのあたりで遅い反抗期のようなものが来た感じがします。
このあたりは記憶が曖昧になってくるのですが、その後結婚、離婚、林業業界に入るなどしました。
その頃は社会性が無というか、いろいろなことが重なりすぎて、いっぱいいっぱいのまま新しい仕事を初めたので、適応するのになかなか骨が折れる日々でした。
四年ちょい勤めるのですが、やっていくうちチェーンソーや各種重機の免許の取得。
ゆるい現場なら任せてもらえる、後輩への指導等任せてもらえるなどあり、スキルやいろいろな力は上がっていくものの悶々としている、物足りない生活を送っていました。
週に6日働き、疲れて帰り寝てまた朝早く起きて仕事。週に一日の休みは風のように過ぎていき、また月曜が始まるお…
という病みぎみな生活を送るなかで、ツイッターから流れてきたのがえらてん氏のブログでした。
この人おもしろいなー、次のブログ更新楽しみだな。ツイッターもおもろい!
と思いながら生活していて、そのうちえらてん氏とホリケンさんとのトークショーやります、という告知があり、すぐ申し込み、東京に向かいます。
長いので一度切ります。